他の受講生の回答 (連続表示)

課題12

課題11に対する他の受講生の回答を読み、以下の問1〜2に答えよ。
問1 「なるほど、うまい、すごい、その手があったか」等と思った回答、あるいは、「変だ、おかしい、違う、それは掟破りだ」等と思った回答を選び、理由とともに記述せよ。
問2 自分の回答を見直してみよ。

回答数:40 人

回答者:01-3061 鹿目 裕一

提出日時:2002.1.21 13:28:11

問1
 1004番の回答は、問いに対する回答になってないと思いました。「自分自身をわかってもらうこと」がメディアとしての重要性ではなく、受け取る側が何を感じるかが重要だと思う。鏡的利用についても、身振り手振りそれ自体を形に残して保存できないので、どうかなと思いました。
問2
 自分の回答を見直してみると、他の人は結構、「身振り手振り鏡的利用」について、肯定的な意見に対し、自分は否定的なのでこれについてもっと深く考えてみる必要があるなと思いました。

回答番号:

回答者:02-2046 波津久 明子

提出日時:2002.1.21 16:42:01

問1 私は服装を選んでいました。しかし992の田中さんの雑誌やファッションショーでの服装までは考えていなかったのでなるほどと思いました。
問2 「服装」を選んだ私の前の回答では、どこかの学生服を着ている人を見るとその受信者は「ああ、あそこの制服だから頭がいいのだろうな」とか偏差値までだいたい見当がつく、と言ったようなことを記していたので大体コード依存型もコンテキスト依存型も書いていたように思います。

回答番号:

回答者:02-3001 安部 一寿

提出日時:2002.1.21 12:17:59

問1 回答番号978は「コード依存・解読・発信者中心」、「コンテキスト依存・解釈・受信者中心」コミュニケーションについて両視点からきちんと捉えられていると思った。また自分では思いつかなかった富士山の写真を遠景としてではなく近景としているところなどは、「なるほど〜、そういう見方があったか〜」と思った。

問2 自分の回答は「コード依存・解読・発信者中心」、「コンテキスト依存・解釈・受信者中心」という二つの視点をよりはっきりとし、鏡的利用についても具体的な状況説明をする必要があると思った。

回答番号:

回答者:02-3005 岡本 裕志

提出日時:2002.1.21 16:22:46

問い1.まず最初に、前回の課題の問い2で振り返られるからと
あまりにも簡単な答えを書いてしまい授業で発表まで
していただきどうもすみませんでした。(T_T)/~~~
まず、他の人の意見に対しまして、あんまり参考になる意見が
ありませんでした。
問い2.前回の回答を見ながら授業などで照らし合わせながら
前回の意見をふくらまかしていこうと思います。
まず、例えば自分は相撲が大好きなので相撲ぶりにたとえたいと
思います。自分は大関の千代大海が好きなのですが、千代大
海の相撲振りによる決まり手は引き落としが得意です。序盤から果敢に押
しと張り手の相撲を展開し、絶妙なタイミングで今度はが
らりと引いて相手を倒します。千代大海は押しの強さと引
く時のタイミングが勝負だと言ってるし、見ている皆さん
にもそこを見ていただければということですが、他の人の
見方には何で最後に下がったりするんだよ!とか結局引い
て倒したりとか卑怯なことしやがって!!せこいやつだ!
などと解釈する視聴者や親方などもいます。この場合千代
大海のタイミングはコード依存・解読・発信者のコミュ
ニケーションをする人であり、そして、せこいとか卑怯な
んかいった人は相手を押してから引くという絶妙なタイミ
ングを見て、その情報を「コンテキスト依存・解釈・受信
者中心で考えていると思う。身振り手振りはよって、メデ
ィアになりうる。
あと、鏡的利用についてはコード依存型の場合NHKで生
の取り組みが終わっ大相撲ダイジェストの番組があるから
それで自分の取り口をみたり、また、NHKの生のやつを
ビデオにとって置いたりすること、また、その後の相撲の
雑誌のいろんな人のコメントなどを読むことで、可能になると思う。
また、コンテキスト依存型では、千代大海の過去から今までの
相撲の取り口をもう1度見直してみることで、実は相手によって
今まで引いて失敗して自分が負けた相手に勝ったりとか、引き落とすタイミングが
全く違うものになっていたりして、コンテキスト依存型も
もう1度いつも以上に相撲のビデオやテレビ番組を見ることで
可能再び自分で考え鏡的利用が可能になってくるんではないかと考える。

回答番号:

回答者:02-3008 徳永 晃司

提出日時:2002.1.21 14:26:42

問1.まず、同じロダンの「考える人」について考えていた997の回答を見て、なるほど、うまいなぁと思った。NOVAのCMを例に出して説明していたからだ。なるほどこういう考え方もあったのかと思った。もうひとつ968の回答はかなり具体的な設定を作っていて、わかりやすく説明がされてあった。また979の回答も、ロダンの考える人をCMの取り出しているが、ロダンの「考える人」という彫刻について考えるとそのCMをどうしても思い出してしまうのだろうが、もっとほかに考え方があるような気もしてくるのである。それをもっと考えてみたい。
問2.自分の回答にはコード依存・解読・発信者中心とコンテキスト依存・解釈・受信者中心という二つの捉え方について触れられていない。そこで考えてみた。まず、コード依存型について。例えば、美術館などに行ってロダンの考える人を目にしたとき、この場合は、この彫刻が何を伝えようとしているのか、これを作った彫刻家はどんな心をこれに込めているのかを先に考えるのではなかろうか。つまり受信者は解読すると言う行為を行い、それは発信者に拘束されることになると思う。次は、自分が今、人生についてすごく悩んでいるとしよう。このような少し精神的にも不安定なときに、このロダンの「考える人」の彫刻を見るとどうだろう。ロダンが何を言おうとしているのか、ということよりも自分自身の中にその意味を問うだろう。つまり、コンテキスト依存型であり、受信者の解釈によって自由に考えることかできるのである。そのときの気分、精神状態などで捕らえ方も変わってくるものと考えられる。

回答番号:

回答者:02-3011 宮下 人勢

提出日時:2002.1.19 17:03:24

問1
 回答番号978の方は二つの視点(発信者、受信者)からうまく分析していると思いました。
 私たちは富士山の写真といえば絵葉書とかにあるような遠くからの望遠写真を想像するがそれは全体の美しさを表す手段なだけであり、ほかにも雪の降っていない状態や高山植物の美しさを撮ったもの、現実的なゴミのポイ捨て問題などがあると思います。また、その写真も発信者が自分の感動を伝えたくて撮ったものが受信者には見飽きた風景だったり、登山者の誘致のために撮った高山植物の写真も小学校の理科の資料に使われていたり、ゴミ問題も私には無関係と気にもとめない受信者がいたりするからです。

問2
 富士山の写真について考えると雪が降りつもった状態であるか、否かで「コード依存型」情報か「コンテキスト依存型」情報に分けられると思う。
 例えば、自分で足を運び富士山の四季の写真を撮影している人は冬の雪化粧をしている状態がキレイだと思っているのでそれを前提に写真撮影を行なっている。つまり、冬であるから雪が積もっている、と意識して撮影していないと思われる。ゆえに、このような写真を見て富士山はいつも雪が降っている、と思い込むのは受信者のほうなのでこれは「コンテキスト依存型」のメディアになっていると思われる。
 また、雪化粧をしてない富士山やごつごつした岩肌と高山植物が一緒に写った写真は、これが春、夏の富士山の姿であるということを発信者が意識して撮影しているので「コード依存型」メディアになるのではないか。富士山にも春が来た、雪化粧の前後の姿である、と発信者は意識して撮影を行なうためである。しかし、雪化粧の写真しか見たことのない受信者がこれを富士山ではない、と勝手に思い込む場合も考えうるため、一言にコード依存型でくくることはできないようにも思う。
 「富士山=遠目からの雪景色」この先入観(先入観が必ずしも悪いとは言わないが)がある限り、発信者が無意識的に雪景色の撮影を行なった場合、「コード型依存」メディアにはなり得ないと思われる。


 メディアとなり得る富士山の写真が鏡的利用可能かどうかを「コード依存型」「コンテキスト依存型」の二つの面から考えてみる。
 まず、富士山の写真が「コード依存型」の場合。これは雪化粧をしていない写真であるが、遠目ばかりから写真を撮影していた発信者が、ふとごつごつした岩場や高山植物も撮って登山者を誘致する写真を撮ろう、と実際に登って撮影に挑んだとする。高山植物や小動物たちの写真をとりながら、いつも遠くから眺めるのではなく実際登ってみるのも気持ちいいもんだ、と感慨にふけっていた。ところが帰って写真を現像してよ〜く見てみると、そこに写っていたのは無残に切り取られた草花や岩への落書き、ぽつぽつと隠されたように落ちているゴミ。富士山の遠目からの全体的な美しさばかりに気を取られていた発信者はここで富士山の実態に気づくこととなり、自然保護を訴えるための写真も撮りだすこととなる。
 「コンテキスト依存型」の場合は、雪化粧の写真ばかりを見ていた受信者が夏に富士山を訪れたとする。あの写真どおりのものを期待していたはずの受信者が目にしたものは単なる巨大な山。たしかに形は富士山だが、雪が、、、無い。また実際に登ってみると、思ったより美しい道のりではないということに気づく。
 これらより、この富士山の写真というものは鏡的利用が可能であると私は思う。

回答番号:

回答者:02-3013 吉田 武

提出日時:2002.1.21 15:25:16

問一
977の回答にあった「富士山は『俺は、綺麗だろ』と発信していない」という表現は非常に興味深いと思った。それを踏まえて思ったことを以下 問二にまとめる。

問二
まず、富士山の写真をメディアと考えるとする。コード依存で考えると、発信者はカメラマンなので、そこにこめられた情報はおそらく「これが富士山だよ、綺麗だろう」とか「大きいだろう」といった内容になる。これはカメラマンの心情なので、写真にこめられてはいても受信者に伝わるかどうかは別問題になる。コンテキスト依存で考えると、受信者は写真を見た人なので、受け取る情報は「綺麗だなぁ」「大きいなぁ」となる。受け取り方は人それぞれなので、全員同じとも限らないし、カメラマンが伝えたかったことと同じであるとも限らないことになる。
では、写真の向こうにある富士山をメディアだと考えた場合。コード依存では、富士山自身が発信者であり、富士山が無言のまま全身で表現しているすべてが膨大な量の情報になり、カメラマンはその一部に焦点を合わせてシャッターを切ったことになる。コンテキスト依存で考えると、受信者はカメラマンと写真を見た人になる。しかし、富士山を撮影したカメラマンの感動と、その写真を見た人の感動は同じではないだろう。ということは、同じ受信者のように見えて、両者には相違があるということだ。それは、カメラマンに情報を送った発信者は富士山であるが、写真を見た人に情報を送った発信者はカメラマンであるということ、だと思う。

回答番号:

回答者:02-3016 石坂 幸子

提出日時:2002.1.20 16:02:14

問1.私は前回「服装」がメディアとなる場合で考えましたが、965の佐藤さんの「壊れたコップ」の場合に、媒介しているものを「現在」と「過去」と考えているところに感心しました。また、意図的であるにしろそうでないにしろ、壊れたコップが過去の事実を表す証拠となると考えているところもなるほどと思いました。そして私は、この場合は自分にとっての過去の証拠となりうると考えました。他人が壊れたコップを見た場合、「単に落としてしまったのか」と思う人もいれば、「故意に落としたのではないか」と考える人もいると思うので、コンテキスト依存であると思います。
問2.前回の私の回答では、コード依存やコンテキスト依存という観点が薄かったようなので付け加えます。「服装」において、例えば、結婚式やお葬式の主役側(あるいは遺族側)とお客側の服装の間には「コード依存・解読・発信者中心」の関係があると言えると思います。礼服により発信者と受信者を拘束していると考えるからです。一方、前回の回答のように服装が個性を表すという点では「コンテキスト依存・解釈・受信者中心」になると思います。例えば、明るい性格の人が普段通り明るい色の服を着ているとします。しかし、それ以上に明るく、普段から派手な服装をしている人から見れば「この人はおとなしそうだな」と思われるかもしれません。この場合、自分の基準で他人を判断することになるので受信者中心であると思います。

回答番号:

回答者:02-3026 佐藤 那智

提出日時:2002.1.21 14:56:41

問1
 ロダンの「考える人」を人が見たとき、彫刻家で発信者であるロダンがこの作品を通して何を伝えようとしているのか、それを解読するという見方と 自分の内面を振り返るきっかけとなる見方の2通りがあるということを知った。つまり発信者中心に捉えるコード依存が前者であり、それは見る人が 製作者の思惑や時代背景意をつかもうとすることに重点を置いた見方で 解読することである。
 後者は作品を通して自身の中にある感情を中心にその意味を解釈する受信者中心のコンテキスト依存であるとしている。 コード依存、コンテキスト依存の意味がよくわからないままだった私にもわかりやすい回答だった。



問2 
前回自分の回答にはコンテキスト依存、コード依存という考え方がなかった。
 私の回答は壊れたコップをテーマにしたが、これはほかのものと違い、発信者も受信者も同一人物であるとしている。はたしてこれでもコード依存コンテキスト依存という言い方は成り立つのか疑問に思った。

回答番号:

回答者:02-3030 角 恵美

提出日時:2002.1.21 16:39:59

問1:978の考えを読んで、自分が、受信者中心のコンテキスト依存の観点からしか見てないことに気づきました。978はコード依存とコンテキスト依存の両方をふまえて考えられていると思いました。特に、富士山の近い風景(植物や岩肌など)は思いつきもしませんでした。
問2:私は前回の回答で、コンテキスト依存からしか「富士山の写真」を見ていませんでした。しかも、いまいちコード依存とコンテキスト依存というものを理解していませんでした。今回は自分なりに考えたコード依存の観点から「富士山の写真」を見ていこうと思います。例えば、発信者が「富士山にさく植物を知ってもらいたい」と思い様々な植物を撮影するとします。この植物の写真を見た受信者は「なるほど、こんな植物が富士山には生息しているのか」と理解します。これは撮影した発信者の意図がそのまま受信者に伝わったと考えられます。こうなるとこれはコード依存ではないでしょうか。

回答番号:

回答者:02-3050 湯野 留美子

提出日時:2002.1.19 16:17:18

問1.私は前回「服装」について考えました。回答が「コンテキスト依存」の場合にばかり着目していました。まず972の石橋さんの回答をとりあげます。石橋さんの初対面で相手にこうゆう風に思われたいという格好であうというところは「コード依存」で、そしてそのようにして発信した情報は受け取る側の判断にゆだねられ「コンテキスト依存」になるという答えに感心しました。また992の田中さんのようにファッション雑誌やファッションショーをコード依存型のメディアとしたところは私はまったく思いつかず、なるほどと納得しました。ファッションショーや雑誌などから発信された情報は受信者がその情報をかわいい、かっこいいと感じ、まねすることで流行をつくりあげているとおもいます。またそうかんがえるとコード依存、コンテキスト依存両方の側から鏡的利用ができるとおもいました。
問2.自分の回答にコード依存の場合も含めた回答を付け加えます。「コード依存型」のメディアとしてファッション雑誌をあげます。992田中さんの前回と今回の回答を読んでいて思い出した出来事を例にかんがえます。つい最近までダサいと思われていて80年代に流行ったケミカルウォッシュのジーンズ、流行は20年周期で回るというのを参考に出版社が『今ケミカルウォッシュのジーンズが熱い!!』という特集を組んでいました。はじめに読んだ私は「あんなダサいのありえない」とおもいます。しかし何度も見ることにより「意外とかわいいのかもしれない」と思い直します。そして街角でケミカルウォッシュのジーンズをはいてるかわいい子を見たとき自分もほしくなり買おうとおもいました。今回の課題をきっかけによくよく考えてみると流行は20年周期だとか80年代がはやりだとか出版社やアパレル業界の売り上げ作戦(チョコレート会社のバレンタインなど)のようなものもので、「コード依存型」のメディアであるといえます。そして雑誌等の「コード依存型」のメディアからえた情報を「かわいい」と感じ街角で着ていた女の子は「コンテキスト依存型」として受信しその服を着て歩くことで無意識に「コード依存型」として私の目に映ります。そして私は前に見た雑誌と彼女をまとめて「コンテスト依存」として受信し参考にしたと説明できるとおもいます。もしも街角の女の子を見たときに雑誌を読んでいなかったらこの子の格好に興味を覚えることはなかったかもしれません。逆に「すごいかっこうしているなあ」とマイナスのイメージで捉えたかもしれません。受信者の考えで捉え方はさまざまだと思います。まさに流行というのは「コード依存」「コンテキスト依存」の繰り返しでうまれるだといえるのではないかと思います。
 また「コード依存型」のメディアで鏡的利用は可能かを考えると可能だと思います。例を挙げると出版社やアパレル業界は発信した情報が街で大ブームになっていたりすることで発信した情報を改めてふりかえることができます。また「コンテキスト依存」の方から考えても受信した情報から実際に服を買い、着ることでその情報を振り返ることができます。また前回の課題に答えていたようにその服を改めて見たり着たりすることでそのときの環境を振り返ることができるという点でも鏡的利用は可能です。

回答番号:

回答者:02-3059 児玉 忠浩

提出日時:2002.1.21 14:10:34

問1.回答番号998の「身振り手振りは言葉では伝えたりなかったり、言語が相手に通じない場合など補助的なものとしてメディアになると思う。私たちは日常自然に指や体全体で使っているものである。これは相手により自分の気持ちを正確に伝えようとするためである。普段、情報を受け取るときにラジオよりテレビを選ぶのは、言葉だけでその状況を把握しなければならないものより、伝える人の様子や身振り手振りがありわかりやすいからだと思う。」という意見にはなるほどと思いました。身振り手振りは相手に通じない場合の補助的なメディアと考えることができます。自分の気持ちを正確に伝えようとするためにこういう行動が出てくるんですから。ラジオよりもわかりやすいところもたくさんあると思います。
問2.言葉では伝えきれないものを視覚に訴えるには身振り手振りは立派なメディアだと思います。

回答番号:

回答者:02-3061 津山 裕史

提出日時:2002.1.21 1:21:59

問1.回答番号984で身振り手振りはそれを伝える側と受け取る側では身振り手振りの受け取り方が違ってくるかもしれず、発信者の意図が通じて、コミュニケーションが成立したときにメディアとして働くとあった。確かに初対面や外国人の人には身振り手振りはよほど分かりやすいものでない限り発信者の意図を上手く伝えることができないことがあるかもしれない。共通の意識を持ったものや、気心しれたものの間では身振り手振りは言葉の変わりとしてメディアの役割を果たすと思う。また回答番号991では鏡的利用は不可能かもしれないとあった。ビデオカメラなどで自分の身振り手振りを記録しておかないと客観的に振り返ることができないとあった。それには賛成で身振り手振りは証拠として残らないので、鮮明な記憶がない限りそのときの自分の思考や感情を振り返るのは難しいと考えた。
問2.身振り手振りは言葉で伝えられない情報を伝えるメディアであるといえる。聴覚障害の人や、外国人に対してもこちらの意図することを伝えることができる。特殊な例として野球のサインをあげる。例えばここはバントだというときに声を出して伝えると相手にばればれなので、その同じチームの人しか分からない身振り手振りを使ってサインを送ることができると思う。これは他の人たちには知られたくない情報を仲間同士で伝える場合に特殊な身振り手振りを決めておけばメディアとして身振り手振りは成立する。この場合鏡的利用は同じ仲間のものがこのサインを出したときの状況を見ていれば、自分の思考や感情を振り返るときにその仲間の話を聞くことで自分を振り返ることができると思う。

回答番号:

回答者:02-3077 猿渡 由佳

提出日時:2002.1.21 3:06:55

問1 私は、前回の課題11で「服装」を選び、メディアとなる場合を考えたので、他の受講生の回答も「服装」を選んでいる人を中心に読んでみた。前回、課題を考えたときは、「コード依存・解読・発信者中心」や「コンテキスト依存・解釈・受信者中心」という言葉がピンときていなかったが、講義で先生の話を聞いて、他の受講生の回答を読んでみると、なんとなくわかってきた。ある人が着ている服を見て、別の人が「かわいいな」とか「今日は何か特別な日なのかな」などと考える場合は、受信者中心のコンテキスト依存型ということになり、またファッションショーなどにおいては、デザイナーが本番に遠目から見て「こうすればよっかた」などと考えるメディアとなるので、発信者中心のコード依存型といえる。また、前回私は、伝達目的まで深く考えていなかったが、他の人の回答を見ると、服装は人と人を媒介にして様々なことを伝え、その伝達目的は、個性の表現であるというのがいくつか見られた。確かに人は、様々な服装を通して自分自身の個性を表しているような気がする。人と違った服装をすることで、自分にしかないよさやこだわりを表しているのだろう。
問2 問1でも述べたように、前回は、発信者中心のコード依存型と、受信者中心のコンテキスト依存型という2つの観点がいまいちわかっていなかったので、この2つの観点から見た服装がメディアとなる場合を付け加えたいと思う。服装は、人と人を媒介して、服を着ている人の個性や性格、その日の気分を表したり、着ている服で、その日の行事(成人式や結婚式やお葬式など)を表したり、流行や国を表すこともある。または、制服の場合は、どこの学校の生徒かを伝えることもできる。では、この服装が発信者中心のコンテキスト依存型のメディアである場合と、受信者中心のコード依存型のメディアである場合を考える。「コード依存型」のメディアである場合を考えると、ファッションショーなどがある。これは発信者であるファッションデザイナーが自分のアイデアを発信しているので「コード依存型」のメディアといえるだろう。この場合の鏡的利用は可能であると考える。デザイナーがファッションショーを実際に見たり、ビデオを見たりして、後で振り返ることができるからである。次に「コンテキスト依存型」のメディアである場合を考えて見る。これは、ある人が他の人の服装を見て、「かわいいな」「私も着てみたい」と思うことである。この場合、そう思う人が受信者であり、これは「コンテキスト依存型」であるといえるだろう。この場合の鏡的利用も可能であると考える。他の人が着ているものを受信者が「いいなー、私も着てみよう」と思って着てみたが、自分には似合わないなあと感じることである。以上のことを前回の回答に付け加えたいと思う。

回答番号:

回答者:02-3082 田浦 佳代子

提出日時:2002.1.21 16:46:48

02-3082 田浦 佳代子
問1 佐藤さんの意見に納得しました。コップが割れたときの想定もうまく、とても分かりやすいものでした。割る前と後では気持ちも全然異なります。後悔は先に立ちません。その場面での描写がとてもよく伝わってきました。そういう考え方もあるものだと思わされました。

回答番号:

回答者:02-3090 蓮香 智子

提出日時:2002.1.21 16:46:34

問1 
 壊れたコップに対して、過去と現在で考えている点に共感した。前回のテーマを「服装」にしてたが、時間的展望についてはまったく考慮していなかったためである。また、状況設定もわかりやすく、壊れたときの状況や感情、人間関係など、ただ単に「壊れたコップ」が存在しているのではなく、その過程には複雑な状況があったことがよくわかった。

問2
 前回の自分の回答を振り返って、状況設定が不十分であったと思う。今回は時間不足のため、明日のテストで十分に吟味した上で回答したいと思う。

回答番号:

回答者:02-3100 松尾 沙織

提出日時:2002.1.21 16:48:38

問1、問2
 03-3114 中村 祥子さんの「発信者の望む結果が受信者によってもたらされたなら、コミュニケーションは成立」という考えに「なるほど」と思った。前回の回答で私は発信者の考えがいかに正確に受信者に伝わるかがメディアに於いて大切なこと、役割として答えていたが、大まかに情報が伝わったとしても発信者の要求が受信者によって満たされればメディアとしての役割を果たしているということに気付いた。

回答番号:

回答者:02-3106 藤原 幸代

提出日時:2002.1.21 11:19:47

問1 私が前回取り上げた服装をコード依存型、コンテキスト依存型の二つの観点からそれぞれ捉え直そうとした時、前回の講義での先生の話と、私も含めコンテキスト依存型の立場から書かれた回答が多い中、992の回答者は明確に二つの観点で、服装のメディアとしての存在を述べているという点から、自分のコード依存型の観点が欠落していることが分かった。また、富士山の写真をメディアとして取り上げていた977の回答者の「富士山が俺は綺麗だろうとは発信していない」という記述から、講義の際先生がおっしゃっていた、「発信者のない場合」との関連性を考える上での何かの指針に成り得るように感じた。

問2 まず前回まで私の考えの基本にあったのが、ある情報が発信されるという時には、常にそれを受信する者がおり、受信者の反応と認知があって初めて、情報というものが形となるコンテキスト依存型に即した考えによるメディアであった。したがって、前回欠落していたコード依存型の視点に立ったメディアとしての服装を考えていくことにする。まずコード依存型は情報を提供している側を指している。新たな発想で次の流行を生み出していこうとするデザイナーの発案した服装という情報は、ファッションショーや、雑誌、テレビや映画によって世の中に発信されていく、発信者中心のコード依存型のメディアであるといえる。しかしここで考えたいのは、デザイナーの発案した服装が全くもって無から生み出された物かどうかということである。違うのではないかと考える。むかしの流行や、時代背景、各国の民族衣装などの様々な情報をデザイナーもまた解釈するコンテキスト依存を行ったうえで、彼もしくは彼女のセンスが加味され新しい情報が生み出されていく。したがって、コード依存型の前提は、様々なコンテキスト依存型のメディアが存在し、リンクしているように思う。この小さなリンクが繰り返されていくと、あるひとつの服装に対して、その存在には、膨大な今までのリンクした情報が含まれていると考えることができるのではないか。
 ではここで、発信者のいない場合の状況について考えてみる。これは視点をどこに置くかで、存在したりしなかったりするのではないかと考えた。例えば、先ほどのデザイナーの発案した服が載っているファッション雑誌は、発信した視点に立てば、コード依存型であり、雑誌を見て、素敵だ、変だといった解釈を持つ受信者側に視点を合わせれば、コンテキスト依存型である。ここで、発信者側を1、受信者側を2と置くと、1は、先ほど述べたように、様々な情報を解釈した後に、発信者となっている。その様々な情報をひとまず民族衣装とし、これを0と置く。そうすると、0と1との関係は0がコード依存型として存在し、1はコンテキスト依存型の立場になる。ここで、1と2の関係性は先ほど述べたように成り立ちが見て取れるが、0と2との関係は、2は1の情報を受け取り、1が発信者だと分かるのだが、ここに0の存在を形として明確に見ることはできないのではないかと考える。このような0と2との関係性において、発信者のいない場合の状況が生まれるのではないか(実際は存在しているのだが)と思った。
 鏡的利用に関しては、コード依存型ではファッションショーをビデオカメラで録画しておくことや、雑誌や写真をみたり、もしデザイナー本人の出来上がった服のコンセプトや思いが雑誌などにインタビューで記載されていればそれを読んだりすることで可能だと思う。またコンテキスト依存型では、雑誌やテレビなどから得た服装に関する情報を、自ら取捨選択し、選び出した服を手に入れ、また少しアレンジしたりと身に着けた服を自分に似合っているか見ることや昔の服を見てその当時の気持ちを思い出すことから鏡的利用は可能ではないかと思った。

回答番号:

回答者:02-6046 杉原 久美子

提出日時:2002.1.21 1:40:45

問1.965の佐藤さんの回答を見て、壊れたコップがコップを壊した本人の過去(発信)と現在(受信)を媒介している、という発想はうまいなと思いました。例えば、壊したときを発信者、片付けるときを受信者と考えると、@今日はいやなことばっかりでむかむかする→コップを投げて壊す→自分はストレスたまってるんだな…、A本につまずいた→コップを落として壊す→何でこんなにそそっかしいんだろう…というように考えることができます。
 鏡的利用についても、壊れたコップを見て@の場合は気分転換でもしようかなとか、周りの人にあたってなかったかなと思うし、Aの場合にはもっと気をつけようとか、部屋を片付けないと反省したりできるので面白い発想だなと思いました。

問2.鏡的利用は可能か、について漠然としてしか答えてなかったのでもう一度考えました。
富士山の写真についてですが、富士山の写真をとった人が発信者、その写真をみる人が受信者だと考えます。まず発信者が自分で撮った写真を見たとき、その写真を撮ったときの感動(景色・植物)や衝撃を受けた(ごみが散らかっている、70歳以上に見えるおばあさんが富士山を登っている?など)ことがよみがえってきます。また自分が登山中に食事をしているときに撮った写真を見て、ちゃんと片付けてなかったかもと思い出して反省できます。
写真を見るだけの受信者は、小学生のときにごみが写っている富士山の写真を見て、わぁ汚い、なんでこんなとこ撮っているんだろうと思ったけど、環境問題の勉強をしてから同じ写真を見ると、何とかしなきゃ、今どうなっているんだろうと問題意識をもって見ることができるので、両方の立場から鏡的利用は可能だと思います。

回答番号:

回答者:02-6047 田中 陽子

提出日時:2002.1.20 23:01:12

問1 私は花田さんと野口さんの回答を読んで、ロダンの「考える人」がメディアとなる場合にCMを具体的に例として取り上げてあったのにはっとさせられました。彫刻家ロダンと彫刻をみる人という視点以外に「考える人」を使って何かを伝えようとする人という視点があったということに気づかされました。
問2 ロダンの「考える人」がメディアとなる場合を考えたとき、ロダンと美術館や写真で彫刻を見る人を媒介としてロダンのメッセージを伝えていると考えれば、「考える人」から受け取るメッセージは彫刻を見る人それぞれに異なるのでコンテキスト依存となります。一方、コード依存となる場合を考えると、ロダンの「考える人」をどこかの会社が宣伝に使った場合、宣伝の企画者は自社の商品のアピールを目的としてしか「考える人」を使わないと思います。当然、テレビの視聴者や雑誌の読者である受け手は「考える人」を商品の広告として受け取ることになります。このときの「考える人」にはロダン自身の発しているメッセージは含まれなくなるため、会社が「考える人」を通して商品を確実に伝えるというコード依存が可能であるように思います。鏡的利用を考えると、可能であると思います。「考える人」の実物を見たり、また写真で見たりしたとき、過去に悩んだり、考えたりしたことを思い出したりすることがあると思いました。また、どこかの会社の宣伝に「考える人」が使われた場合、「考える人」を見る度にその会社や会社の商品を思い出すと思います。

回答番号:

回答者:02-7601 平尾 信晃

提出日時:2002.1.18 15:51:07

問1
前回の授業を聞いて先生が2つの視点が必要だといわれたときはなんとなくしか解らなかったが、978番の回答を見ていてはっとした。富士山の写真を僕は、受信者中心と受け止めていたがどうもそれだけではない。例えば、写真をとる人の発信者の意図によって受け止め方は変わるということである
問2
問1とも関連することだが、つまり、写真を撮る側(発信者)が、遠景から風景写真と、富士山によく登っている人
で、山が観光客によって汚れているから、環境保全を訴えた写真では、受信者の受け止め方は、発信者側に左右されると言ってよい。簡単いえば、漠然とした写真であればそれだけ受信者によって受け止め方が代わると言うことを前回の意見に付け加えたい。

回答番号:

回答者:02-8089 花田 信一

提出日時:2002.1.21 17:01:38

問1
・979の回答
 この回答は私の回答と少々似ておりこの方もロダンの考える人という語句を見ただけでピンとCMを連想したのであろう。
 ただ問1で全く違っていた点は私がCM放映を前提に発信者をCMプランナー受信者をテレビの視聴者と念頭においていた点である。CMプランナーがテレビと視聴者の脳を媒介としてロダンの考える人を使って宣伝している方向性へと必然的に移っていってしまう。
 しかしこの回答ではCMプランナーを受信者としてみたときの場合が想定されているのでこれはCM作成の過程を前提にしたものだといえよう。そうだとすると考える人が載っている雑誌や写真実物そのものが展示してある美術館が媒介となってCMプランナーの思考の中で考える人→考えている姿→考えることの重み→疲労(眼性疲労)→栄養ドリンクまた考える人→考えている姿→迷う姿(行くか行かないか迷う)→英会話教室へと連想し、考える人を独自のオリジナルなものへと変えてしまったことになる。
 考える人を使ってのメディアといえばCMということは連想したのは同じだとしても対象の視点が違えばこうも結果が違うのである。 

回答番号:

回答者:03-2056 一ノ瀬 京子

提出日時:2002.1.21 15:50:06

問1:968
課題11の中で私が一番考えにくかったのがコップについてだったのだが、他の回答者の中には結構コップを選んでいる人がいたので、興味深く読んだ。特に968のコンテキストを自分で設定して分析している回答がわかりやすくて身近なものの思えた。どんなに想像しにくいものでも、自分の身の回りのことに置き換えることによってわかりやすくなるものである。この968の場合に関しては、子供の心理、母親の心理両方を意図したもので、何だか温かくてよかった。

問2:私はロダンについて解答したのだが、他の人のロダンの回答を読んでみると、いろんな見方ができるのだなと思った。何年も前に作られた芸術作品でも、今の時代もこうやってあたかもロダンがまだ生きていてそこで考え込んでいるかのように鑑賞者の目には映る。昔も今も変わらないメディアとしての芸術のすばらしさがある。

回答番号:

回答者:03-2078 陶山 望

提出日時:2002.1.21 16:48:05

問1.前回の課題を提出するにあたって、私はそれぞれの選択肢について吟味してみたのだが、「壊れたコップ」がメディアの働きをする場合を思い浮かべることができなかった。それは、ただコップだけをみてしまい、「壊した人・壊れた原因」を考慮できなかったからかもしれない。968番のように、状況設定を細かくしてやれば、「壊れたコップ」も十分メディアになりうると実感した。

問2.前回私が提出した課題は、「富士山の写真」を「発信者中心のコード依存型」メディアとしてしか捉えることができていなかった。先週の授業終了後、その「受信者中心のコンテキスト依存型」メディアとしての可能性を考えてみたので、それをつけ加えたい。
先週先生がおっしゃられたように、写真の撮影者が誰であろうとかまわない状況は存在する。むしろ、その方が多いくらいかもしれない。撮影者がどういう意図で富士山を撮影しようと、同じ写真を見た人の感想や得た情報はそれぞれで異なる。例えば、雪のつもった富士山の写真を見て、「雪がつもっている」とだけ思う人もいれば、「寒そうだ」と思う人もいる。「実際に登ってみたい」とまで思う人もいるかもしれない。その点を考慮すると、「富士山の写真」はコンテキスト依存型メディアの働きもする。
また、「鏡的利用」についても同様である。同じ写真を同じ人が見るにしても、5歳の時に見るのと60歳で見るのとは印象が異なるかもしれない。そのような時に、60歳の人は同じ写真を通して、5歳のときの思い出・心情を振り返ることができる。

回答番号:

回答者:03-3005 土田 晃久

提出日時:2002.1.19 17:56:07

問1.富士山の写真
 私は受信者側は同じ人ならいつも同じ受け取り方になると考えてしまっていたが、山口さんの受信者側の心理状態やその場の状況によって、同じ受信者でも受け取り方が変化するという考えに、確かに、例えば機嫌の良い時と悪い時とではモノの判断基準に差がでるように、時間や場面に応じて、受信者の受け取り方は変化するんだなあと、なるほどと思った。
問2
 いま一度、富士山の写真について「コード依存・解読・発信者中心」、「コンテキスト依存・解釈・受信者中心」の二つの立場からそれがメディアである場合を考えていき、さらにその場合、鏡的利用は可能か吟味することにする。
 まず「富士山の写真」が発信者中心のメディアである場合を考えてみる。ある旅行代理店にお客が来て、客がパンフレットに載っている富士山の写真をみている。これは発信者である旅行代理店側が客を旅行に引き込もうと意図してメディアを発信しているので、これはコード依存だといえる。この場合、富士山の写真は代理店側と客を媒介している。では、これに関して鏡的利用は可能であろうか。ある旅行代理店側が自信を持ってパンフレットに載せていた富士山の写真を、ある客から「いまいちパッとしないわね〜、他のとこを見てみるわ」と言われたとする。おそらく代理店側はその写真を変更するかどうか見直すだろう。このように発信者中心の鏡的利用は可能であろう。
 次に「富士山の写真」が受信者中心のメディアである場合を考える。ある場所に富士山の写真がただ置いてある。それを見た人は撮影者の意図したいことに関わらず、それを見た個人の受け取り方に委ねられることになる。綺麗だとか、登るのきつそうとか。このように、これは受信者中心だといえる。この場合、「富士山の写真」は撮影者とそれを見る人とわ媒介する。
 では、これに関して鏡的利用は可能であるか。例えば台の上に置いてある何枚かの写真を、最近トランプタワーに
はまっている人が見たとする。おそらく写真を見るのは早々に切り上げ、その写真でトランプタワーを作り出すであろう。よって、それをあとで振り返って「あの写真、何だったんだろう」とあまり考えないといえるから、鏡的利用は不可能であろう。今はその例をあげたが、それを見る人によって変わるので一概には不可能といえないだろう。






回答番号:

回答者:03-3007 西口 崇

提出日時:2002.1.21 13:57:09

問1
先生の話を聞いていると、前回の自分の書いたものは状況設定が甘く、媒体の意味や役割をしっかりと把握してなかったんだなと痛感させられました。山口さんの回答の、「状況によって意味が変わる」という意見はすごいと思いました。
問2
壊れたコップについて、自分の答えを大幅に見直すことにします。
<状況設定>
A君がB君の前でどうしようもなくくだらないギャグを言い、それに対してB君はジュースを飲み干したばかりのコップを床に投げつけて壊した。
<コード依存型の場合>
B君はコップを壊すことによって、A君の言い放ったギャグに対して、「お前のギャグはつまらないんだよ!!」ということを訴えている。ここでの媒体は壊れたコップである。このときのB君の感情は明らかに怒りである。それによって我を忘れてコップを投げた。そのごB君はコップを見て、「怒ると物を壊す自分」に気付き、「しまった!またやってしまった。」と思うだろう。ここでB君は自分の怒ったときの行動をコップを通して振り返っていることから、この場合の鏡的利用は可能である。
<コンテキスト依存型の場合>
壊されたコップを見てA君は、「自分のギャグは面白くなかったんだな。だからB君は怒ってコップを投げたんだ。」と思うだろう。またこのコップを見て、「自分のギャグでまた人を怒らせてしまった。前にもこんな風にギャグを言って人を怒らせてしまったことがあったんだ。」と思ったとする。そこではコップを通して自分の以前の状況を振り返っていることから、この場合の鏡的利用は可能である。

回答番号:

回答者:03-3010 有田 さやか

提出日時:2002.1.21 14:04:51

回答999番のミニスカートの事例で、おへそがでて露出が激しいからギャルだとか、男の人が着ていたらニューハーフだとか、具体的に面白い内容で示してあるので感心した。回答997番では「考える人」からNOVAやピクミンの「愛のうた」などのみぢかなCMが取り上げており、私はNOVA
のCMで「考える人」が使われていたなどすっかり忘れていたのでなるほどと思った。

回答番号:

回答者:03-3013 石崎 由貴

提出日時:2002.1.21 13:31:34

問1
996の田浦さんの回答である、
服装は「洋服を紹介する人(普通その辺を歩いている人も含む)」と「着る人」を媒介していると思う。
という意見はなるほど、と思った。なぜなら私は服を着る人とそれを見る人に視点を合わせていたので、流行を提案するデザイナーやバイヤー、店員、と言う存在に気付いていなかったからだ。ここで彼らの伝達目的を考えると、デザイナーが紹介する服装はその人の感情や個性を表現する目的があり、コード依存コミュニケーションといえるのではないか。一方バイヤーや店員の伝達目的は服そのものの魅力を伝え、服が売れるようになることで、その人個人に関わる感情を伝えようとする意図はあまり無い様に思われる。そして、いかにコンテキスト依存コミュニケーションにおいて受け手の評価を高めるかに重点がおかれている。
服装の紹介者とひとくくりにしても、その目的は異なっているように思われる。
問2
前回の回答では、コード依存、コンテキスト依存コミュニケーションそれぞれについての鏡的利用が可能かという視点が不十分だったので、その点の考察を深めたい。
自分が何らかの意図を持って服を着るとき、服装はコード依存コミュニケーションのメディアとなる。具体的には就職活動を行うとき、自分はまじめで責任感がある人柄だという印象を面接官に与えたいといった伝達目的を持っているとしたら、アイロンをかけたシャツを着て、シャープな柄のネクタイをきゅっとしめるだろう。また、デザイナーが自分の内面や感情などを表現したくて服を作り、ファッションショーやファッション雑誌で発表することは、服装がコード依存のコミュニケーションにおいてメディアとなる場合だとかんがえられる。どちらの場合も、鏡で自分の格好を確認したり、モデルが服を着て歩く姿を見たりすることによって、自分の意図していることがきちんと表現できているかを確認できるので、鏡的利用が可能だといえる。
逆に先ほどの就職活動の例で、視点を面接官に移した場合、受験者のいわゆるリクルートスーツを没個性とみるか、社会常識があるとみるかは面接官の判断にゆだねられる。これはコンテキスト依存のコミュニケーションであるといえる。同じ服装をしていても、見る人によって感想は違うからである。そのときの鏡的利用は可能だろうか。ある面接官は次から次に会う人物の格好がどれも同じであることに、また同じか、と先ほどの人物の服装を思い出すことが出来るので、鏡的利用が出来ると考える。
上記の例を考えていると、コード依存型、コンテキスト依存型はそれぞれ完全に独立するのは難しく、表裏一体のものではないかと感じる。

回答番号:

回答者:03-3015 一木 朋枝

提出日時:2002.1.21 11:44:31

問1 972石崎さんの回答の、「その人の人柄や考え方を知らない場合ほど、人は服装によって判断されるし、相手を判断している部分が大きいと感じる」という部分について。これは自分にもあてはまると思った。初対面の相手に対して、ついその人の服装を見て「大人しそう」「こわい人かな」「流行を追う人かな」などと判断しがちである。この場合、こちら側が勝手にいろいろな解釈をしているので、コンテキスト依存型だと考えた。続いて、992田中さんの回答に「たとえば、『○○さんがこういう服を着てかわいかったからまねをしてみようかな。』と情報の受信者が考えた場合」とあったように、私たちは他人の服装を見ていろいろと解釈する中で、「まねしたい。」と思うこともある。この「まねしたい。」という気持ちから、自分の今までの服装を振り返り、かつまねしたい服装が自分に合うように色やアクセサリーなども考えたりするので、コンテキスト依存型の、このように受信者が「まねをしよう」と思った場合は
鏡的利用が可能だと考えた。
問2 前回の回答を具体的にしたい。(身振り手振りについて)
〈問1について〉以前テレビ番組であった話だが、ある女性がエジプトで強盗にあい、金品をすべて盗られたあげく、砂漠の真ん中に置きざりにされてしまった。女性は方向もわからないままとにかく民家を求めて走り続け、ようやくたどり着くことができた。そこで、家の人に「自分は強盗にあった。助けてほしい。」と紙に絵を描きながら身振り手振りで伝えた。すると、相手は分かってくれて水や食料などを恵んでくれたという。この場合を考えるとコード依存型であり、女性と相手の視覚を媒介して、強盗にあったことを伝えている。伝達目的は女性がとにかく助けてほしいことを伝えたいということだと思う。次に、コンテキスト依存型の場合を考えてみたい。仲良しグループの女の子4人がいる。1人の誕生日が近いとあって、ほかの3人が当日びっくりさせようと内緒で誕生会やプレゼントのことなどを計画しているところに、突然その女の子が「何話してるの?私も仲間にいれて。」と話しかけてきた。3人はびっくりしてあわ
てて計画書を隠したり、「何でもないよ。」と両手をふってみせたりする。女の子は自分だけ仲間に入れてもらえないんだなと落ち込む。この場合、女の子はまさか友達が自分の誕生日の計画を考えているなど思わないので、友達の身振り手振りに「私だけいれてもらえない」と解釈し、不安になってしまう。3人のあわてふためく様子(身体の動き)と女の子の視覚を媒介して、何か隠し事があることを伝えている。
〈問2について〉問1の例から考えて、まず強盗にあって現地の人に助けを求める場合のコード依存型では、女性は絵を描き、また身振り手振りで相手に伝えながら、自分の身に起こった出来事を細かく思い出すことになるので鏡的利用は可。次に、誕生会の計画の場合のコンテキスト依存型では、女の子はその計画が分かるまで「何か3人に対して悪いことをしたかな。」と振り返り、誕生会のことが分かったときに「あぁ、あのときかくしていたのはこのことだったのか。」と友達の行動を振り返ることもあるので鏡的利用は可。

回答番号:

回答者:03-3031 佐藤 美幸

提出日時:2002.1.21 15:46:26

問1 私は前回富士山の写真について回答したが、「コード依存型」からしか考えていなかった。しかし、978の方の回答は「コード依存型」と「コンテキスト依存型の」2つの視点から考えてあってすごいと思った。「コード依存型」から考えると写真を撮った人の富士山の感動を伝えようとしていることになるし、「コンテキスト依存型」から考えると写真を見る人によって富士山の写真について感じ方が変わってしまい、受信者にゆだねられているというのになるほどとと思った。また、969の方の「コンテキスト依存型」の考えもいいなと思った。写真を撮った人の意図を別にして、写真を見る人の状況によって感じ方が変わってくるのを「東海道五十三次」などの具体的な例が出してあり、「コード依存型」しか思いつかなかった私にも理解しやすかった。そして問2についても私は鏡的利用は可能だと思ったが、969の「コンテキスト依存型」から考えると不可能になるのかなと感じた。
問2 (問1)富士山の写真を「コード依存・解読・発信者中心」の視点から考えると、富士山の写真は写真を撮った人(発信者)と写真を見ている人(受信者)の媒介となって、発信者の富士山に対する美しいとか雄大だなどといった感動や旅行の思い出などを受信者にそのまま伝えることだと思う。これは富士山を実際に見たことのない人などにもその感動を伝えることを目的にしていると考えた。次に「コンテキスト依存・解釈・受信者中心」の視点から考えると、富士山の写真は富士山と受信者の媒介となっていると思う。このとき、富士山を撮った人の感動などは直接受信者の思考には影響を与えず、受信者の過去に富士山へ行った記憶や、外国人が写真を見て「日本一の山と言うけれど、たいしたことないなぁ」などと受信者それぞれによって感じ方が違ったり、受信者の状況によって感じ方が変わってくるだろう。こうなると、富士山の写真は受信者中心といえるだろう。
(問2)「コード依存型」で見ると鏡的利用は可能だと思う。それは、発信者は写真を見ることで、「富士山を始めて見て感動したなぁ」とか「あの人と富士山に登ったなぁ」などとその時の気持ちや記憶などよみがえってくるからだ。また「コンテキスト依存型」で見る場合、受信者は発信者の気持ちや記憶を振り返ることはできないので鏡的利用は不可能と言えるかもしれない。しかし、受信者自身の富士山への思い出や感動があり、それが富士山の写真を見ることで呼び起こされるのであれば、鏡的利用は可能だと考えた。

回答番号:

回答者:03-3041 田中 真順美

提出日時:2002.1.16 11:01:50

<問1>
 私は先週「服装」がメディアになりえるかということを考えた。私は服装がその人のセンス(もしくは芸術作品としての「服装」)を表しているとしか考えていなかったが、多くの人がその服装でその人の身分や、民族、気持ちなどを表現しているということについて触れていた。民族衣装に関していえば、普段からそういう格好をしているのか、日本の着物や韓国のチマ・チョゴリのように特別な場合に着るものなのかということで、「コード依存型」の情報であるか「コンテキスト依存型」の情報であるかが分かれてくるのではないかと思う。まず、たとえばサリーのように普段からそういうものを着ている人たちは、それを着ることを当たり前としている。つまり、「インド人である」ということを意識してそれを着ているわけではないと考えられる。だから、そういう服装の人を見て「インドの人かな?」などと考えるのは受信者のほうであるので、これは「コンテキスト依存型」のメディアになっているのではないかと思う。
 また、逆に日本の着物のように特別なときに着る民族衣装というものは「今日は特別な日である」ということを発信者側が発信しているので「コード依存型」のメディアになるのではないかと思う。「今日は初詣だから着物を着よう」とか「花火大会は浴衣で行こう」などと発信者は考えていると思われるからである。しかし、着物姿の女の人を見て勝手に「今日はあの人、誰かの結婚式かな?」と受信者側が思い込む場合もあるので、これは一概に「コード依存型」のメディアであるとは言い難い。「成人式=振袖」、「葬式=喪服」というようなパターンが決まっているために発信者が特に意識せずに、当たり前のものとしてそれを着ている場合、それは「コード依存型」のメディアにはなりえないだろう。このように、「コード依存型」のメディアと、「コンテキスト依存型」のメディアは、相反するもののように見えて、それを分類するのは難しいということがよくわかった。

<問2>
 服装が「コード依存型」のメディアである場合と「コンテキスト依存型」のメディアである場合を考え、それぞれの鏡的利用が可能であるかどうかということを改めて検討することにする。
 まず、服装が「コード依存型」のメディアである場合を考えてみよう。「コード依存型」のメディアである「服装」を考えるとまず、ファッションショーやファッション雑誌の存在が頭に浮かぶ。これは発信者(デザイナー・モデル・出版社など)が自分の思いや意図をもってしてメディアを発信するのであるから、まさに「コード依存型」のメディアと言えるであろう。
 では、これに関して鏡的利用は可能であろうか。あるファッションショーを主催するデザイナーを発信者として考えてみることにする。このデザイナーは「小悪魔的なファッション」というテーマを置いて、ファッションショーを行うことにした。彼は試行錯誤を繰り返し、万全の状態で本番に臨んだ。しかし、本番、リハーサルのときよりも少し遠目の位置からショーを見ていてはっとした。ブーツのヒールが少し高すぎたのである。それに、首に巻いたファーのボリュームも少しありすぎたようである。悪魔的要素は十分に出ているが、「小悪魔」という中に秘められた「かわいらしさ」が少し欠けてしまったのである。
 ・・・とこのように「コード依存型」の服装に関する鏡的利用は十分に可能であると考えらる。ショー自体、そのビデオなど見て実際にデザイナーはいろいろと振り返ることで次の自分へとつなげているのではないかと思う。
 では、次に「コンテキスト依存型」のメディアとしての服装について考えてみることにする。これは、受信者が他人(友達やアーティスト、女優、雑誌のモデルなど)を見て「いいな〜」と思った場合にそれに似たような服を着たりすることである。
 これについても鏡的利用は可能であろうか。たとえば、友達がかわいい白のピーコートを着ていたとする。「かわいいな」と思った私は買い物の際にそのような服を手にとってみる。店員さんにもすすめられ、試着をしてみることにしたがなんだかしっくりこない。「膨張色の白だから太ってみえるのかなぁ〜?」などと思いながら、ほかの色のものを試着してみる。やっぱり黒の方があわせやすいかな?などと思い、それを購入する・・・。
 私にはよくある話だが、これはまさにその鏡的利用であるといえるであろう。受信したメディアを取り入れ、それを振り返っているからである。
 このことにより、私はファッションとしての服装は「コード依存型」のメディアにも「コンテキスト依存型」のメディアにもなり得ると思うし、また、それぞれについての鏡的利用も可能であると考える。

回答番号:

回答者:03-3077 赤司 麻美子

提出日時:2002.1.21 16:29:31

<問い1>
前回の回答で私は、コード依存型とコンテキスト依存型を区別せずにひとつのものとして、考えてしまっていた。他の受講生の回答を見て、二つの視点というものが解った。身振り手振りにおいて、真新しかった回答、私とは少し違う感性を持った人がいた。967番の回答だが、身振り手振りとは、私はただの、言葉を伝える際、伝わり易くするひとつの要素とだけと考えていたが、考えと考え、気持ちと気持ち、人の意思と人の意思を媒介とし、自分自身を知ってもらうことが目的である、と書いてあった。深い回答ではあると思ったが、身振り手振りというメディアでは、人の中身まで知ることは難しいのでは?と思った。

<問い2>
 身振り手振りがメディアとなった場合について、考えを深めて行きたいと思う。

 [コード依存・解読・発信者中心]
 媒介となるものは、身振りをする人と、それを見る人となる。(ただし、この場合発信者中心の情報となるので、見る人の気持ちは考えてはいけない。)身振りをする人、つまり発信者は、相手がどう受け取ろうと、じぶんが伝えたいことを、まず、身振り手振りを用い、伝える。例えば、ティッシュを取ってほしい、と思い、鼻をかむしぐさを誰かに向かってする。この、鼻をかむという仕草がメディアとなり、相手に向かって飛んでいく。相手はわかってくれるかどうかはわからないが、情報を発信する。
 鏡的利用についてだが、前述の場合で考えると、相手がティッシュをすかさず取ってくれたならば、自分の発した身振り手振りはわかりやすかった、と振り返ることができる。もしもここで、「何かにおうの?」など、自分の思惑と違う答えが返ってきたならば、自分の身振り手振りは思惑に適してなかった。通じるまで改善することができる。

[コンテキスト依存・解釈・受信者中心]
 受信者中心の場合、まず、身振り手振りをみるところから始まる。身振り手振りをしている人を見る。自分なりに、そのときの自分の気分や、過去の経験から、その人が何を伝えたがっているのか解釈する。例えば、大きく手を振り上げて、左右に振っている人がいたとする。受信者は、それを自分が人と別れ際にする、バイバイの挨拶だと解釈した。そして、自分も相手に大きくバイバイをしてその場を離れた。相手はバイバイをしていたのか、または、こっちに来て!と訴えかけていたのか、は定かである。
 ここで鏡的利用についてふれる。前述で、受信者がバイバイをして、相手もそのまま何も言わなかったら、あの身振り手振りはバイバイの意味だったんだ。当たっていた、と振り返ることができる。もしも、「ちがう!こっちに来て!」と呼び止められてしまったら、自分の解釈の仕方は間違っていた。違う解釈の仕方もあるんだな、と学ぶことができる。
 また、このほかにも、自分とは関係のないひとの身振りをみて、素敵だ、自分もあんな身振りをしてみたいと思い取り入れることもできる。しかし自分の性とはあわない場合や、居心地が悪い場合も出てくるだろう。

回答番号:

回答者:03-3086 兎洞 摩衣子

提出日時:2002.1.21 10:16:21

問1 前回の課題では、服装について考えたが、コード依存なのかコンテキスト依存なのかはっきりと分からない部分があった。978の回答は、その辺が分かりやすかった。ごみの写真をとればゴミがあること、植物を撮ればその植物が富士山にあることが見る人に伝わる。これはコード依存のコミュニケーションである。それによって、ゴミをなくそうとか、自分も行って見たいなどと考えるのは、コンテキスト依存のコミュニケーションになると思った。

問2 服装について、より具体的に考えてみたい。
服装をメディアと考えたとき、着る人が意図を持って着、それが見る人にそのまま伝わればコード依存のコミュニケーションであり、着ている人や作成者の意図と関係なく、見る人が色々な思いを抱いていればコンテキスト依存であると思う。
 例えば、コンサートの会場などでコスプレをしている人を見かけるが、その人は自分がその歌手のファンであるということをアピールしており、周りの人があの人は熱心なファンなんだなと思えばそれはコード依存である。同じ場合でも、見る人によってはおかしな格好をしている人がいるなとか、自分もしてみたいなという感想を持つかもしれない。それは、着ている本人は意識していないことなのでコンテキスト依存であると思う。鏡的利用に関していえば、コード依存のほうは、コスプレをした人が自分の写真や実際に着た服を見て、かっこよく決まっていたと満足したり、この色がもう少し落ち着いた色のほうが本物に近かったなどと振り返ること、コンテキスト依存のほうでは自分もしてみたいと思った人がそういう格好をする。しかしその人の体型ではその服装は似合わない。やっぱりやめようというようにふり返る事ができるので、どちらの場合にも鏡的利用は可能だといえると思う。

回答番号:

回答者:03-3095 黒木 千草

提出日時:2002.1.21 16:30:01

とても簡潔で分かりやすい回答だと思った。友達が着ている服を見て、かわいいと思ってまねしたり、学校でスーツを着ている人をみると就職活動中かなと思う。この場合受信者中心のコミュニケーションとなると考える。一方、ファッションショーの場合、ショーをしている人たちは、こういう風に表現したいという意図があり、そこにはその人の個性さえも感じられる。この場合、発信者中心のコミュニケーションが強いと考えられる。
問2 前回の私の回答にはメディアの二つの観点がなかった。富士山の写真をとる際、富士山の雄大さを表現しようと雲と富士山の具合に焦点を合わせて撮るとする。その写真を見た人が山と雲の重なりに目をむけ、「富士山は雲より高いのか、なんて雄大なんだ」と感じたら、発信者中心のコミュニケーションが成り立っていると考える。一方、その写真を見て、山と雲の重なりには目を向けず、ただすばらしい、または、富士山を覆う雪に目を向けたりする場合も考えられる。その場合、写真を見た人によって感じ方、解釈の仕方が違ってくる。この場合、発信者の意図(何を伝えたくて写真を撮ったのか)は無視されたことになり、受信者中心のコミュニケーションといえる。

回答番号:

回答者:03-3114 中村 祥子

提出日時:2002.1.21 15:15:27

問1.967番の回答を参考にして−私も身振り手振りについて考えていたが、主に言葉の通じない外国の方を対象とした場合のことを考えていた。でも視覚障害者や聴覚障害者の方と気持ちを伝達しあう身振り手振りもメディアとして成り立ちうることに気づいた。聴覚障害者同士であれば「手話」がこれにあたるだろう。健常者とも意思の疎通は可能である。しかし、もし視覚障害者が身振り手振りを用いるとするならば、視覚障害者の方は一方的に発信する側にしかなれず、受信者がうまくその意図を汲み取ってあげないかぎり、コミュニケーションが成り立つとは考えにくいのではないだろうか。
問2.自分の回答を見直してみて−問1であげた場合を含んでしまうと、私の言わんとすることとは少し外れてしまう気がするので、敢えて含まずに考えてみたい。私の回答はもう少し詳しい状況を踏まえながら考え直す必要がありそうだ。

回答番号:

回答者:03-3124 堀田 舞

提出日時:2002.1.21 16:47:26

問1 壊れたコップがどういう場合にメディアとなるかは自分ではよい考えが浮かばなかったので、965佐藤さん、968安藝さんの回答を見てなるほどと思いました。このように条件を設定すれば、壊れたコップでも鏡的利用が可能であるのだなと思いました。

問1.服装がメディアとなる場合、その服を着ている人と、その服を着ている人を見るまわりの人を媒介して、その服を着ている人の置かれている状況を伝えていると思う。例えば、お葬式の黒い服は悲しみの気持ちが、結婚式の華やかな服装には喜びの気持ちが表されており、自分の気持ちを服装を媒介として相手に伝えるという目的が考えられる。制服は、学生であることを伝えていることになるし、制服によって、西南高校の生徒だ、とか修猷館の生徒だとかどこの学校の生徒かまで伝えていることになる。これは「コード依存・解読・発信者中心」のコミュニケーションである。
 電車でブランド物など高そうなものばかり身につけている人を見かけたら、その人はお金持ちなのかなと思うし、逆に地下街で薄汚れた汚い格好をしている人を見かけると、その人は貧乏なのかなと思う。この場合は、その服装によって、ある程度見ているまわりの人から、その服装をしている人が自分であえて伝えようとしていなくても、どのような状況におかれているか判断されてしまう、「コンテキスト依存・解釈・受信者中心」のコミュニケーションである。制服は実際にはお嬢様でなくても、その学校の制服を着ているだけでお嬢様だと解釈されることもあるので、このコンテキスト依存型の場合も考えられる。





 



回答番号:

回答者:03-3124 堀田 舞

提出日時:2002.1.21 16:59:59

(続き)
服装は、そのとき自分がどのような気持ちでその服を着たか振り返ることができるときは鏡的利用が可能だと思う。思考、感情を形に残しておくわけではないので、いつも着るような普段着では鏡的利用は難しいと思う。成人式や結婚式などの特別な日にした服装だと、「あの時はこういう気持ちを持っていたな」「この服を見ると思い出すものがある」など、思考や感情を振り返ることができる。この場合のみ、服装は鏡的利用ができると思う。

回答番号:

回答者:03-4098 山口 幸子

提出日時:2002.1.21 15:50:09

問1 回答番号971番の杉原久美子さんの回答を見て気づいたことは、私自身の中で「富士山の写真」=山頂に雪の残る富士を地上から撮影した遠景写真 だという先入観が無意識に働いていたことです。今までの講義の中でも先入観については学んでいて、先回の回答を作る上でも極力注意していたはずなのに、状況設定については「その富士の姿が夕景なのか、夜景なのか、はたまた日の出が始まる幻想的な姿なのか」という点しか思い浮かべることができませんでした。"捨てられたごみを写す富士山の写真"については、特にはっとさせられ、環境について興味を持っていても頭の中ではどこかで割り切っていた(つまり「その時」だけ問題視していた)のか、と自問してしまいました…。
また、965の佐藤那智さんの回答には「発想がすごいなぁ」と感心させられます。「壊れたコップ」という題目を見て、設定が難しそうだからと回避してしまった自分には、コップを選んだ人すべてがすごいと感じるのですが、中でも佐藤さんの意見では、媒介するものとして「現在」と「未来」が挙げられていたので、回答にとても興味を持ちました。ただ、壊れたコップが作者によって意図的に割られた芸術作品であるのなら、媒介するものは変わってくるのではないかな、と感じていました。

問2 佐藤さんの回答で指摘したようなことが、自分の回答に対しても言えると考えます。先回の内容では、「コンテキスト依存型」のコミュニケーションに視点を固定して述べていましたが、同時に「コード依存」の視点によっても、「富士山の写真」はメディアとして成り立つのではないでしょうか。媒介するものはコンテキスト依存型の場合と同じく撮影者と見る側ですが、たとえば、ある人が"自然"をテーマにした展覧会に自分の作品を出展しようと撮影活動をしていて、「きれいだなぁ」と感動した富士の写真を撮ったとします。それは夕景であったり、富士山に自生する植物であったり、ごみを拾うボランティアの人々であったりしました。すべてを総合して"ある人"は「富士の美しさをみんなで守っていこう・自然を失わないためにそれぞれが何らかの行動を起こそう」というメッセージをこめていました。しかし、実際に展覧会に訪れた人々には「ただの富士山の写真」にしか見えず、撮影者の気持ちは伝わらないことがあるのです。そのような場合、「富士山の写真」("コード")は数ある展覧作品の中の「数枚の写真である」と"解読"されるにすぎません。
以上のように、富士山の写真は「コンテキスト依存型」・「コード依存型」コミュニケーション双方でメディアとなることができます。このほか、壊れたコップや服装などにおいても同じように、それぞれは両義性をもっていると思います。

鏡的利用ですが、先回の回答で私が富士山の写真について不可能だとした意見はかなりの少数派でした。「同じ写真を見たとしてもその時々の状況によって受け止め方が変わるので鏡的利用は不可能である」という自分の意見は変わりませんが、その後に「場合もある」と付け加えなくてはなりません。これも、上記の問いで参考にしてもらった杉原さんの回答をみてからなのですが、「その時はこういう気持ちでこの写真を見ていたなぁ」と振り返ることができる、という点では鏡的利用になっているのだということに気づきました。

回答番号:

回答者:03-8092 久富 博幸

提出日時:2002.1.16 20:30:15

問1 前回の課題では「富士山の写真」を選択しました。私は撮影者の思いを伝えることしか思い浮かびませんでしたが、今まで富士山を見たことがない人に四季折々の魅力を知らせたり、実際富士山を見たことがある人にその時の経験を思い出させることができるという回答にこんなことも伝達できるのかなるほどと思いました。また、鏡的利用にも関連させた回答番号969・山口幸子さんの富士山の姿を見て戦争を思い出して感傷的になったり、雄大な姿から将来の希望を抱くなど写真を見る時の状況によって受け止め方が変わるという回答は、写真を見る時は同じような感情しか抱かないとしか捉えていなかった私に新たな視点を与えてくれました。撮影者が写真を後で見ても、撮影した時には気付かなかったことを発見することもあり得ます。

問2 「富士山の写真」が「コード依存・解読・発信者中心」になる場合を考えます。ある有名な写真家が展覧会を開いて「富士山の写真」を出展して、写真に説明文やコメントを付け加えているとします。その「富士山の写真」は写真家と写真を見る人を媒介しています。写真を見る人は説明文などを読んだ上で写真を見ると、説明文がない時と比べれば写真家の思いがスムーズに伝わります。例えば撮影者が富士山の冬の美しさを伝えようとしても、ただ単に「富士山の写真」だけを人に見せても撮影者が何を伝達したいのかは明確には分かりません。説明文やコメントが付け加えられていることで、写真を見る人によって解釈が変わることもあまりないと言えるでしょう。このような場合は発信者(撮影者)中心となります。伝達目的は撮影者の伝えたいメッセージ、思いを他者に表すことだと思います。
「富士山の写真」が「コンテキスト依存・解釈・受信者中心」になる場合を考えます。ある友人が富士山へ登山に行き、その写真を(写真の説明、コメントなどはつけないで)私に送ってきたとします。その「富士山の写真」は撮影者と写真を見る人を媒介しています。富士山へ登った時の感動や富士山の美しさなど撮影者の思いを伝えることがある程度できると思います。前の場合と違って、説明文やコメントを付け加えていないので、富士山の美しさを感じる部分は撮影者と見る人では一致することもあるでしょうが、微妙に異なるはずです。見る人によって様々に解釈されるので、この場合は受信者中心となります。
撮影者と写真を見る人が同一人物であるならば、(写真を見た時の状況によって思いが変わることもあり得るしょうが)アルバムを眺めるなどして、撮影した時の思いや情景を思い出すことができるので、鏡的利用は可能だと思います。(写真には表現できなかった感情なども思い出せるのではないでしょうか)撮影者と写真を見る人が異なる場合は、写真を見た時の思いを日記などに書きとめておかなければ思い起こすことは難しいと思われるので 、鏡的利用は必ずしも可能、不可能とは言い切れないとと思います。

回答番号:

回答者:03-8524 弓岡 千紋

提出日時:2002.1.21 15:56:41

 02-8089の花田さんの回答をみて、ロダンの「考える人」をメディアとした場合の意見が人とは違う考え方で面白いと思った。
 私の意見としては、前回は考えが思いつかなかったのだが、服装をメディアとして考えた場合、服装は服を着ている人とそれを見ている人を媒介して、服を着ている人の個性など着ている人に関するあらゆる情報を伝えていると思った。服装をメディアとした場合、それは発信者中心にの役割の方が強いと思う。発信者中心とする場合は、例えば、ファッション雑誌では、服を通して発信者側である、モデルやデザイナーやスタイリストたちが、いろんな情報を発信しているとかんがえられる。
 また服装は、鏡的利用も可能だと思う。

回答番号: