回答者:082504 古賀 弘之
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シゲ子とタカシは,はじめはうずくまったままで,まるで人間の形をした動物という感じだったけれど,最後の場面では,二人の兄弟として人生を生きているという感じだった。また,最初二人は丸い手触りの良い石を選ぶだけのような単純な楽しみしか見出せなかったのに,最後の方になるにつれて,点字や指文字でお互いの意志の疎通を行い,様様なことに興味関心を示すことができるようになっていた。 |
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開発されていない人間というのは,もって生まれた能力,例えば言葉を使うとか他の人とコミュニケーションを行う,興味関心を広げてゆくなどを,十分に発揮できるだけの訓練を受けていない人間ということなのかもしれない。しかし,そう考えるなら,開発されている人間というのはその反対に,様様な能力が十分に発揮されている人間ということになるが,十分に能力が発揮されているとは度の程度の能力の開発をさすのかという点が問題になると思う。そうすると,障害を持っていない人間でも,持っている能力を十分に発揮できていない人間はたくさん存在するし,完全に開発された人間などは誰も存在しないということになるのではないだろうか。そういう意味からしても,開発されてない人間,開発された人間という表現は私は好きではありません。あえていうなら,その能力に応じて適切な教育を受けた人間と,そうでない人間といういいかたや考え方をするべきではないかと思います。 |
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シゲ子とタカシに,なにかができるとひたすらクラッカーを与えていたのがまず何よりも印象に残りました。はじめは,これではまるで動物を調教するのと変わらないではないかと思い,多少憤りを感じましたが,その結果二人が点字を覚え,物の名称を覚えていったので,この方法で良かったのかもしれないと思いながら続きを見ていきました。これは,オペラント条件付けを利用した,行動理論にのっとった方法だったのでしょうね。また,この方法を利用して,シゲ子が「あ」を発声することができたのにも驚きました。また,このような方法で与えられていった課題をこなしつつ,それらを統合することのできる彼らの能力に感心しました。もし自分が視力と聴力を失い,二人が受けたような訓練を受けたとしても,いったい何を求められ,何を行えば良いのかわからないのではないかと思いました。二人の能力が開花していったのは,二人を熱心に訓練している人々の情熱によるところも大きいと思います。あきらめないで努力した成果が実を結んだのではないかと思いました。また,タカシが数学の問題ができるようになったのにも驚かされました。ただ,数学の問題が解けるよりも,今後の二人の人生にとって,もっと有意義なことを訓練していけばよいのにと思いました。二人が数学ができたところで,苦労した割には,後の人生には何の役にもたたないのではないかという点が危惧されてなりませんでした。最後に,二人は訓練によって様々な力や能力を身につけたものの,まだまだ彼らの中には,眠っている能力があるのではないかと思われました。 |