前のページに戻る


教育工学・視聴覚教育

第4回目の課題(ek4)

九州大学 久米 弘


回答者:081323 城谷 剛
  1. 冒頭の場面と最後の場面との相違点

    最初は、二人とも何の教育もされていなかったため、野放しにされていた。そのため、両親が働きに出て家にいないときは、柱にくくりつけられていた。先生がおっしゃっていたように、そうせざるを得なかった両親の気持ちもわからないでもない。しかし、梅津先生らの教育によって、二人は言葉を知り、自分の気持ちを他者に伝えるまでになった。ナレーションで、「…暗闇と沈黙の世界から出された。…」と言っていたが、言葉を知った二人は、教育を受ける以前とは、顔の表情までもはるかに違っていたと感じた。

  2. 開発されていない人間と開発された人間との相違点

    柱にくくりつけられている状態から、トイレに行って用を足すようなしつけをされた状態になったことは、すごいことだが、これはまだ人間を開発したこととはいえないと思う。ヘレン・ケラーのときもサリバン先生は、食事のマナーをしつけるだけでは教育とはいえないと考えていた。そのため、ヘレンと小屋に閉じこもって、言葉を学ばせた。言葉に限らず、子どもが自分自身の内面から知りたいという要求を持ち、知識を構成していかない限り、それは教育とはいえないのではないかと考える。だから、今回のビデオで、先生が求めていることを二人ができたとき、クラッカーを褒美にあげていたが、これは教育とはいえず、また、二人はまだ開発された人間とはいえないと思う。あまりよい例とはいえないが、サーカスなどで、動物が芸をできたとき、調教師が褒美にエサを与える。動物はエサをもらうために、芸をするようになる。これは教育とはいわない。調教である。動物が自ら芸をしたいと思って芸をしたとき、それを教育というのだと思う(しかし、実際は、このようなことは起こらないだろう)。同様に二人が言葉を知りたい、話したいと思ってそれをなしたとき、教育が存在するのであり、開発された人間であると言えるのではないかと考える。

  3. 印象に残っている場面と感想

    指文字を知って、梅津先生に会いたいとか、レースの下着がほしいというように、自分の意思を伝えることが可能になった。この場面で二人が教育によって成長したことが感じられた。また、発声するとき、先生が「アー」というのを手のひらで感じたり、先生の口の中に手を突っ込んで振動を感じさせていた。このとき、シゲコは手を口の中から出して、手をふっていた。そして、渡されたタオルで手をきれいにふいていた。これは、シゲコが自分の手が汚れて汚いと感じたからだと思う。


前のページに戻る