From: Kinosita Makoto <kinosita@rengeso.edu.kyushu-u.ac.jp>
Date: Tue, 22 Dec 98 17:37:18 PST
(1)土着の知識や概念はその人の受けた教育や環境に大きく左右されるものではない
だろうか。現実に体験した経験以外はあくまでイメージに近い概念として人の記憶
を形成するとするならば、その様な知識や概念が真実と異なっていたとしても大学
生である学生がそれを恥じる必要はないと考える。むしろ新しい知識を得たと喜ぶ
ような余裕が欲しいと感じた。さらに、物理や化学、生物の世界に絶対などあり得
ないこと、化学式も物理の公式も現実に存在していない世界のモデル(オームの法
則は低電圧下でしか成立しない。H+イオンなどこの世に存在しない。他)である
こと、生物に例外はつきものであることを考えたとき恥じるべきことは何もないと
考える。むしろ、教育者だから絶対知っていなければいけない知識だなどと、作ら
れた教師像で自分を縛るような強迫観念を持ち、学ぶことの喜びを自ら放棄するよ
うなことがあってはならないのではないだろうか。だからといって児童や生徒に対
する教育的責任(?)を放棄しろといっているのではない。大切なのは自分の持っ
ている知識や信念は絶対的なものではなく、教科書や指導書に書かれている内容が
常に正しい内容で、どこでも成り立つなどと考えず、教師として指導する内容を自
分で吟味し、可能な限り楽しみながら体験し、生徒とともに成長(人間として)し
ようという態度と努力(楽しみながら)をおこなう生き方ではないだろうかと感じ
た。
(2)私は大学院で樹病学を学んだが、その時、試験設定(環境)と対照、くり返
しの数、ばらつきの大きさ、検定、相関などの統計的処理を考えることがくせにな
ってしまった。そのため、テレビや新聞の世論調査、新薬の宣伝など声だかに傾向
性を主張する場面になるとついつい懐疑的な判断を下してしまう。このことで失敗
をしたしたのが高校の同窓会の時であった。それは、看護学校の学生実験の被験者
数の少なさに実験自体の成立を否定するよう発言をしてしまい相手の気分を害して
しまったことである。研究対象により確保できる被験者や対象に限りがあり、それ
を解釈するために統計処理があることを忘れて、自分の研究分野の解釈ですべての
事を判断してしまうようなことがあった。
(3)学会で主勢を占める研究内容に反対した研究内容を発表する方の発表場面に
同席したことがある。主勢を占める研究が絶対だと考える人々の持つ知識や信念が
土着のものだとは言えないが、このような方々の学会における態度は決して紳士的
ではなかった。発表者が研究発表している途中で発問したり、研究の方法自体を否
定したり、発表者の研究者としての資質を否定するような発言をしたりまさにヒス
テリー的な発言も見られた。それと対照的に、とある旧帝大の発表では、くり返し
も少なく再現性が疑われるような発表(共同研究者であったため良く知っている。
)をしても、にこやかな雰囲気で質問がなされ、アドバイスまで飛び出すありさま
であった。OHPやスライド、グラフや表、写真をどんなに用意しても大学の研究
者のような人に対立するような知識を伝えることは困難を極めると推測される。研
究者同士の個人的対立はし烈を極めるし、仮に目の前で同じ実験を行っても実験そ
のものを否定するであろう。私達の悪いところであろうが学校名や研究所名、個人
的名声で研究を判断し、研究内容そのものを見ないことがある。それを、箔ずけと
呼んでもよいかも知れないが、そのこと自体が土着の知識であり信念なのかもしれ
ないと考える。以上の様な否定的な考えをしていても解答にはならない。が、同じ
立場で私のとれるプレゼンテーションは、スライドやOHPの視聴覚機材の使用と
文句の付けようのない精密な資料を作る事であると考える。